[開設日] July 25, 2022 [更新日] February 19, 2025
戦争の放棄とSDGs (The Renunciation of War and the SDGs)
国連が掲げた17の持続可能な開発目標(SDGs)。この地球を未来永劫に持続させ、人々が幸せに暮らせる環境をみんなで実現しようという呼びかけだ。素晴らしい発想とは思うが、大事なことが忘れられてはいないか?
“As we embark on this collective journey, we pledge that no one will be left behind.“
国連が2015年に発表した「持続可能な開発目標 (Sustainable Development Goals: SDGs)」という呼びかけの前文には、このように書かれている:
「ともに持続可能な世界へ向かうこの旅をはじめるにあたり、だれひとり取り残さないことを誓います」(日本ユニセフ協会訳)
この短い文章に、強い違和感を感じる。SDGs文書には「貧困をなくそう」に始まって「飢餓をゼロに」「すべての人に健康と福祉を」「質の高い教育をみんなに」「安全な水とトイレを世界中に」など、全部で17の努力目標が掲げられている。いずれも急を要する目標ではあるが、そこには「戦争の放棄」という、喫緊の目標が見られない。
平和に関する目標は、呼びかけの最後から二つ目に目標16として「平和と公正をすべての人に」と、柔らかい間接的な表現で掲げられている。これでは、平和に与えられた優先度は高いとは思えない。果たして、国連は戦争を放棄せずともSDGsを2030年までに達成しようと考えたのであろうか。
持続可能な世界への旅で我々は生き残れるとしても、この瞬間にも戦争や紛争のために命を落としている大勢の子供、若者、一般市民、そして兵士がいる。いうまでもなく、彼らの後ろにはさらに大勢の、悲しさに打ちひしがれた「家族」がいる。彼らは、まさに持続可能なはずの世界から「取り残されし者」だ。我々は彼らの存在を決して忘れてはならない。
このSDGsに潜む違和感は直ちに解消し、呼びかけをより万全なものとする必要がある。そのためには「戦争の放棄」をSDGs宣言全体の出発点としなければならない。これを目標0 (SDG0) と定義し、 SDG1 (貧困をなくそう) の前において最優先する。具体的には、人の命を奪わない、銃の引き金を引かない、核のボタンを押さないという、極めて具体的で明瞭な目標だ。
さらに、この目標を今すぐ毎日の行動に反映させるために “sdg0now” (sdgゼロ・ナウ、sdg-zero-now, SDG-ZERO-NOW, etc.) というスローガンを併せて提案する。これは国籍を問わず、子供から高齢者まで、個々の人間が生まれた瞬間から寿命が尽きるまで、無条件で順守すべき公平かつ絶対的規律としてとらえる。これなら、まだ生まれていない子供も含めてすべての人間が容易に理解でき、当然のルールとして受け入れられるであろう。
戦争という殺戮行為が現代の世の中でいまだに続いていることは、実に嘆かわしいことであり、同時に不可解なことでもある。どうして戦争をするのか。どうして戦争が許されるのか。どうして戦争を止めさせられないのか。戦争に依存せずに問題を解決するという知恵はないのか。
「戦争に勝利した」ということは「より多くの人を殺した」ことを自慢するのと同じだ。「自分たちには知恵がないから戦争以外に解決方法がみつからない」と告白しているようなものだ。「相手の方が先に攻めてきた」というのは、まるで子供のセリフと同じではないか。戦争は無条件に今すぐ止めなければならない。
そこに「戦争」という言葉があることに注目し、「戦争」という概念のない世界を想像し、さらに「戦争という概念が存在しない世界」を実現する手段を模索することに専念する。そのためには我々は戦争の歴史に対する思考を根本から変えなければならない。それが “sdg0now” の呼びかけの根幹だ。
SDGsの17のタイトルを一枚の紙に書き出してみるとSDGs宣言の全体像が分かる。さらに、最後のSDG17 (パートーシップで目標を達成しよう) からはワクワクするような可能性を感じとることができる。仮に、すべての核保有国がこれまでの好戦的な考えを改め、戦争の全面放棄を決意し、ビッグブラザー (頼もしい兄貴分) 的パートナーシップ (SDG17) を結んで事に当たれば、真に持続可能な未来への道がより早期に見えてくるはずだ。
戦争や武力開発、さらには戦争破壊からの復旧に要する新しい予算は不要となり、この余剰費を戦争被害からの復旧に当てれば、2030年の達成期限も決して夢ではない。特に、SDG1からSDG7までは瞬く間に解決の道が開かれるのは確実だ。
そうなれば、戦争の放棄と核兵器の廃棄を決断し、この歴史的なパートナーシップ締結の署名に臨む全世界のリーダーたちは、世界中の80億人もの人々の「遅すぎる!」という大ブーイングに続き、一転して称賛と感謝の的となるであろう。
戦争放棄の議論は今に始まったことではない。多くの学者、法律家、政治家、宗教家、いわゆる有識者、コメンテーターが自説を戦わせてきた。残念ながら、彼らの論争はいつ実を結ぶのか予測さえつかないのが現状だ。その間にも大勢の犠牲者が生まれている。これを傍観していいのだろうか。
戦争の放棄。これは拒否権行使対象から除外し、今すぐにも世界の全ての人間が無条件で合意、実現すべき目標ではないか。その気になれば、明日にもこの星は平和に満ち溢れるであろう。それなのに、これとは反対の道に国民を導こうとする政治家、リーダーがこの世の中に存在するのは何故か。
19世紀後半に始まった日本による海外侵略は20世紀中期の太平洋戦争につながり、それから80年近くが経過した。侵略については日本は加害者であり、先の戦争に関しては加害者であり被害者でもある。同じことが他のいくつかの国にも言える。その間に我々は互いに何を学んだのか。何を反省したのか。いまだに戦争の暗い影を引きずった報道に毎日のように接するのは、戦後処理が決して完了してはいないことを証明している。
国家間の政治的、金銭的な謝罪だけで事は済んだとするのではなく、誠心誠意の全面的、精神的、文化的、教育的な謝罪が相手国の人々の心に届いていないことが問題と思われる。そのためには、互いに一大決心して仕切り直しをすることが必要ではないか。
人類の歴史をつなぐ若者たち (The Time Binders)
難しい国際問題の解決は次の世代に任せよう、などと平然と口にする政治家がいる。それは戦争という殺戮行為をそれまで容認することと同じだ。どうして今すぐ解決しないのか。これより優先すべき課題が他にあるとでもいうのか。
自己の利権追及と忖度 (おべっか) の政治文化にきっぱりと決別し、自分達に課せられた本来の使命を思い起こし(あるいは誰かに教えられ)、自分達の手で、自分達の世代で、明日にでも平和な世界を築こうという気概、ビジョンに溢れた政治家はいないのか。平和を築くことを意識して行動する。これこそが我々の毎日の生活で最優先すべき姿勢ではないか。
人の命を奪うことさえ止めれば、最低限の平和は今すぐにでも実現できる。大勢の人の命を救うことができる。そのような発想ができる政治家はいないのか。古代人に殺人をやめさせようとしても不可能かも知れない。しかし、現代を生きる80億人の人間なら啓蒙、教育、説得によって戦争を止める気にさせることができるはずだ。「まず、政治家からその気にさせる」というのが、現実問題と見える。
銃の引き金を引くに要する力は、数キログラムといわれる。引き金から指を外すに要する力は、限りなくゼロに近い。戦争の放棄。その方法は引き金から指をそっと外すだけだ。何が障害となっているのか。
平和の実現を難しく考えること、抽象的で理解困難な法律論や歴史観で語ろうとすること自体が、問題解決を難しくしていないか。法律論や歴史観について書かれた世界中の文書すべてをAIに解析させても、満足のいく解は得られないであろう。
実は、戦争を放棄するのは極めて簡単だ。「戦争は止めた」と宣言する、「戦争はしない」と憲法に明記する、そしてそれを遵守すればよい。小学生でも理解できるいくつかの言葉で事は足りる。戦争を放棄した後どうするか、何をするか。それを模索することこそ本来の課題ではないか。これほど具体的で単純なことが難しい国際問題の解決策であることに、政治家はどうして気づかないのか。
今から138億年前、宇宙が誕生したとされる。そして46億年前、我々が住む地球が形成され、やがて人類が誕生し、人口80億人の現在に至る長い歴史が始まった。それがすべてだ。そこで何をしろ、どのように生きろという決まりも一切なかった。
そのようなカオスの中で、生きるための最小限の知恵が生まれ始めた。毎日の食べ物を求める欲が芽生え、争いが生じ、境界、集団、社会という概念が生まれる。平和に生きるという概念もないまま、我々の祖先は今から考えると好ましくないことも思いつき、経験、学習、創意工夫によりさまざまな道具や手段、考え方を身に着けるようになった。
知恵と悪知恵はさらにレベルアップし、進化していった。今がその頂点だ。戦争や武力の報道が続く現代を生きる我々は、このような由々しい状況を法律や政治や外交で解決しようと奮闘している。それは経験に基づいた知識に頼った方法だ。
しかし、それは来た道を正確に後戻りし、水漏れ個所を見つけ、そこにパッキンを当ててしのごうとする一時的なプロセスに過ぎない。迷わないように落としていったパンくず (「言葉」「知識」とも言える) をひとつづつ拾い、ごみを落とし、少し離れた別の場所に置き直すようなものだ。落ちたパンくずにはばい菌が付着している。我々はばい菌ではなく「戦争」という概念自体を振り落とさなければならない。
拾ったパンくずに頼っては解決したことにはならない。そのパンくずは忘れ、来た道を起点まで一気に俯瞰し、その視点の先に新しいパンくずを落とし、すなわち新しい思考、新しいビジョンを見つけて新たに出発し直すのが、正しい解決方針と思われる。
戦争を放棄した状態 (“sdg0now”) を新しい思考 (歴史) の前提条件とする。戦争のない世界を想像し、その後であらゆる国際問題に取り組む。そうすれば、難しいとされる国際紛争も一気に解決することに気づく。我々がこれまでいかに愚かであったかに気づく。そして、気づいた後に何をどうすべきかを講じる。それが、現代を生きる我々に課せられた緊急の使命ではないか。
昨日までそこにあったはずの我が家の跡に呆然と立ち尽くす少女。瓦礫の山を前にしたそのいぶかし気な表情は、悲しみより先に「何故、どうして?」と問いかけている。幼い子供に理解できるはずがない、大人たちがそのような愚かなことをするとは。
戦争の悲劇は人命だけではない。爆撃によって瓦礫と化した町、国土、住宅、学校、病院、公園を再建し、安らぎを約束するベッド、温かい食事、きれいな水を確保するには、想像を絶する長い時間と莫大な資金が必要だ。その社会経済的負担に苦しむのは現在を生きる子供たち、これからの社会を支える若者たちだ。我々の子供たち、孫たちだ。その時、瓦礫を作った張本人、多額の借金と苦しみを次世代の若者たちに押し付けた無慈悲で無責任で愚かな大人達の姿は、もはやどこにもない。
大人に対する子供の不信感は、決して消し去ることはできない。彼らの不安、悲しみ、不便、不自由は、愚かな大人が作り出したものだからだ。そして、その愚行は今日もなお、当然のごとく続いている。それは「戦争」という化け物が我々の心の奥に概念として力強く息づいているからだ。政治努力によって国際情勢は少しずつ改善されていると見えても、実は我々はまだ路上に落ちているカビの生えたパンくずに頼って生活しているにすぎないからだ。
世界の指導者達に尋ねたい。一体いつまで、戦争と将来の不安、閉塞感に束縛されたこの日常を若者たちに続けさせようというのか。気が遠くなるように莫大な負の遺産を、いつまで彼らに相続させようというのか。自分達にはそのような負担を彼らに負わせる権利があると思っているのか。彼らの中には、自分たちの子供や孫も含まれることに気づいているのか。彼らに恥じることをしていると気づかないのか?
次の世代の主役となる若者たちには、夢と希望と自由に満ちた明るい未来を用意しなければならない。「子どもの権利条約」が約束するように、世界中の若者たちには、自由に生きる権利がある。夢を追い求める権利がある。そして、多くの政治家と違い、若者たちには人類の福祉に貢献したいという純粋で熱い情熱がある。
若者たちは科学、学術、スポーツ、芸術、娯楽など、あらゆる分野で互いを刺激し、協力し、正々堂々と競い合う意欲に満ち溢れている。戦争を仕掛け、宇宙にまで武力競争を持ち込み、自国の手柄にしようなど目論むような愚かな若者はいない。そのような馬鹿げた考えに追従、共鳴するような若者もいない。
若者たちには、何の束縛もない未来がふさわしい。そして、人間が決していつまでも愚かではないことを証明してもらう大役を、彼らに引き受けてもらわなければならない。彼らこそ、この宇宙を舞台とした、人類の壮大な歴史を紡ぎ続けてくれる存在 (“time binders”) ではないか。
“生きて生かせる” (“Live and Let Live”)
このような考え方に対して、君は歴史を知らない、政治を知らない、学校で何を学んだのか、何を馬鹿なことを考えている、世の中とはそういうものなんだよ、などの反論を耳にすることがある。人を苦しめる政治など知りたくもない、知る価値など微塵もない。そんな政治によって形成された歴史より注目すべきは、戦争が行われているという確かな現実だ。そのために多くの人命が失われているという現実だ。現在の世界、現在の社会、現在の若者たちがおかれた現実だ。重要なのは戦争という愚かな現実、カビだらけのパンくずという現実に気づくことだ。
瓦礫の前に立ち尽くす少女、栄養不良で力なく横たわる乳児、冷たくなった母親の横で泣き叫ぶ幼児、戦場に放置された兵士の遺体。この現実は、決して持続させてはならない。一日も早く終わらせなければならない。今すぐ終わらせなければならない。
そもそも、この地球は誰のものでもない。これは、世界の人口80億人の全員が誰でも、そこに自由に生きる権利を生まれながらに持っていることを意味する。それは個人一人ひとりの権利であると同時に、自分とすべての他人との間の暗黙の合意事項でもある。
自分が生きる権利を有すると同時に、他の80億人すべても生きる権利を有すること、そして互いの生命自体を互いに認め合うことを意味する。自分が生きることを他人にも認めさせ、他人が生きることを自分も認める。まさに「生きて生かせる」(“Live and Let Live”) という約束事だ。
この「生きる権利」は、小学生でさえも理解できる初歩的で平等な権利だ。法律家や政治家が異論を唱えることではない。彼らが登場できるのは、戦争放棄の概念 (“sdg0now”) が周知徹底し、「生きて生かせる」という名の新しい歴史の初日の幕が開いた後だ。問題は、どうすればその舞台の上でみんなが平和に暮らすことができるかだ。残念ながら、人類誕生から46億年が過ぎて紀元21世紀となった今も、我々はその手段を見つけてはいない。それは、我々にとって全く未経験の世界だからだ。
21世紀を生きる我々のこの悲しい現状は、政治、法律、教育、宗教の限界を露呈しているといえる。そうでなければ、健全な政治が行われ、戦争などとっくに地上から無くなっているはずだ。
日本は「戦争のない平和な国」と言われてきた。本当にそうであろうか。他の国や地域での戦争や紛争、飢餓、貧困、気象災害から目を背けたままでいいのだろうか。他の国で秩序が破壊されているのに、自分たちだけが「自称平和国家」でいられるのだろうか。「他人事」で済ませていいのだろうか。それは80億人との約束事に反することを意味する。相手の生きる権利を見捨てるのは、いつか自分の生きる権利も同じ道をたどることにならないか。
あの瓦礫の前に呆然とたたずむ少女の絶望感、栄養不良で力なく横たわる乳児、冷たくなった母親の横で泣き叫ぶ幼児、戦場に放置された兵士の遺体の悲劇は、我々にも責任がある。その元凶は「よその国のことだろう」「自分には関係ないよ」「世の中とはそういうものなんだよ」という寂しい考え、諦めの境地、自己本位の考え、無関心だ。そのような風潮を我々が作り出し、容認してきたからだ。
このような歪んだ世の中を、あるがままに肯定してはならない。「しようがない」と諦めてはならない。そのような消極論は、戦争を日常の一部として容認するのと同じだ。時間がたってカビが生えたパンくずをいつまでも大事にするのと同じだ。それでは何世紀経っても本当の意味での平和な世界には一歩も近づくことはできない。幸せに人生を送るという自分の権利を放棄するのと同じだ。
先の世界大戦から一世紀近くが経過した。人間はその間に少しでも賢くなったであろうか。確かに科学技術の面では進化したといえる。しかし、平和という観点からすると、人間は少しも賢くなってはいない。
30万年前に誕生したとされるホモサピエンスでさえ、現在の地球上の無謀な争いを目にすれば、「どうしてそこまでやるのか?」「我々の子孫はこんな程度の知恵しか手にすることができなかったのか!」と、その愚かさの極みに驚き、人類の行く末を悲観することだろう。そして、自分たちに言葉と文字があったら「賢くなれ、みんな仲良く」と子孫に書き残しただろうにと嘆くに違いない。
武力競争の犠牲になるのは、次世代を担う子供たち、若者たちだ。彼らの未来へ向けた選択肢を制限することに他ならない。彼らの未来を奪うのと同じだ。彼らは本来「無限の選択肢と希望に満ちた自由な地球人」だ。そのためには、大人たち自らが先ず責任ある地球人としての自覚を持ち、若者たちにもそのように接しなければならない。
歪んだ世の中は若者たちの失望感、閉塞感、無気力につながり、さらには非行、暴力、殺人などの遠因となる。そのような事態になったことの背景を解明し、どうすれば自分たちの住む社会や世界を少しでも良くできるか、若者たちにとってより希望に満ちた、明るい人生を期待させる世の中にできるかに考えを巡らせなければならない。どうすればより明るい未来、人生を手にすることができるか、真剣に考えなければならない。それは若者たちの生まれながらの権利だからだ。それを大人たちが奪ってはならない。
戦争放棄で始める真に持続可能な未来への道 (“sdg0now” Commitment to a Truly Sustainable Future)
最低限の規律もないままに、人間は戦争を繰り返し、政治的な「謝罪」だけで心からの誠実な反省もないまま、この世紀を生きてきた。その中で数々の科学的発展も収めてきた。人間の生活を豊かにする科学。人間そのものを殺戮する科学。人間の貪欲さを象徴する武力競争は今や地球のみならず、月から宇宙まで達しようとしている。そして、莫大な資金がそのために向けられている。
その資金と資源、思考、知恵を貧困、飢餓の解消や難民の救済のための対策など、人道的な目的に回せば、急を要するSDGsの多く、特にSDG1からSDG7までは瞬く間に解決の道が開かれると思われる。そして、世界がすぐにでも希望に満ちた場所に生まれ変わることは疑う余地もない。
国内に限って言えば、若者たちを取り巻くこのような事態を回避するのは彼らの親世代、現在の大人達の責任だ。今こそ我々の出番だ。政治家たちばかりに任せておいては、どこに向かうかわからない。これまで、政治家を選んできたのは我々、そして我々の親たちだ。その意味では、現在の世の中の歪みは我々の責任であることは明白である。
これは極めて深刻な問題だ。先ず、我々一人ひとりが行動を開始しなければならない。選挙に無関心であることをやめ、「どうせ誰を選んでも同じでしょ」と諦めず、自らの将来と子供たち、孫たちの未来のために、投票する候補者を真剣に選ぶ。自分の票が他の票と合わさって一つの流れとなり、さらに大きな変化を生み始める。それが平和へ向かう改革の確実な第一歩となる。
個人が単独で社会を改革するのはあまり効率的とは言えない。それよりも先ず、このような社会、風潮を作りだした責任の一端を担う政治家を巻き込むのが効果的だ。私利私欲に固まった利権追及型政治家、誤った方向に国民を導こうとする熱血型政治家を見分けることだ。彼らの政策や演説の言葉に惑わされることなく、その行動と実体から判断する。そして、次の選挙から何としても彼らを排除することだ。
国際的な視点から言えば、設立から一世紀近く経過した国連の仕組みを見直し、民主主義の精神に基づいて生まれ変わった新しい国連の合図で一度すべての人間が同時に立ち止まり、世界の現状に深く思いを馳せ、その知見を共有し、戦争放棄と平和構築という壮大で共通の目標 (SDG0 = “sdg0now”) に向かって大いなる決断を下さなければならない。
それは、個人間および国家間レベルにおける相互合意違反という過去の度重なる過ち(負の経験)をそれぞれが勇気をもって互いに認め、反省し、ともに平和への新しい道を堂々と歩み始める「負のフィードバック」(“Negative Feedback”) という決断だ。これは、世界中の子供と大人、すべての人類を巻き込んだ、平和に向けての「人類の人類による人類のための、賢明にして壮大な一大改革」となるはずだ。
大人達の責任は極めて大きい。先ず我々が事の重大さに気づき、我々には世の中を変える力があることを再認識し、政治家に働きかける、そして彼らをフルイにかける。今こそ、それを実行に移すときだ。一日遅らせれば、それだけ新しい悲劇が生まれる。犠牲者が生まれる。若者たちを失望させる。一日でも早ければ、それだけ新しい世界に近づく手段を手にすることができる。それは世界中の子供たち、我々の子供たちと孫たち、ひ孫たちに自慢できる、真に持続可能な明るい未来への道だ。

世界中の子供たちに明るい未来を!
Bright future for the children worldwide !
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SDGsに潜む違和感 – ほぼ完成公開中
ライフ・オリエンテーション – 途中経過時々公開
The Trouble with the SDGs – Coming
Life Orientation – Coming
このサイトには上記二つのパート (日本語と英語版各2パート) を予定しています。SDGsに潜む違和感 は小中学校時代以降に見聞きした「社会問題」に端を発する内容で、現在も更新中です。ライフ・オリエンテーション はそのような「社会問題」特に「戦争放棄」の解決を目的とした環境 (“sdg0now”) を実現する一つの方法といえるものです。こちらは制作編集中のため現段階では非公開です。
小学生の時、友人が「手話で会話している聾学校の生徒をからかっている」のを目撃。中学生の時、「人種差別を受けているとされる朝鮮人の老婆」が通りがかった。その悲しみに満ちた眼差しは今でもはっきりと記憶しています。高校大学と進み、さらに多くの不条理を見聞きしました。中でもその最たるものが「戦争という概念の存在自体」です。その存在に対する自分の気持ちを言葉で表現することが、自分のライフワークとなりました。海外での軍事侵攻や日本の国政の茶番劇など、最近の出来事も加味しさらに加筆更新中です。
ブログ制作運用ソフトであるWordPressの経験がなくゼロからのスタートのため、学習しながら少しずつ進めています。サイト開設から2年以上が経過しましたが「SEO」や「リダイレクト」といった設定ミスに苦労しています。
<AI ChatGPTによるブログ「SDGsに潜む違和感」の評価> (2024/12/23)
ブログ「SDGsに潜む違和感」は、持続可能な開発目標(SDGs)における「戦争の放棄」の欠如に焦点を当てています。著者は、SDGsに「戦争の放棄」が含まれていないことに疑問を呈し、真に持続可能な未来を築くためには戦争の放棄が不可欠であると主張しています。この視点は、平和の重要性を強調し、SDGsの目標を再評価するきっかけを提供しています。ブログの内容は2024年12月18日に更新されており、最新の情報が提供されています。また、シンプルなデザインで読みやすく、平和と持続可能性に関心のある読者にとって有益な情報源となっています。全体として「SDGsに潜む違和感」は SDGsの目標に新たな視点を提供し、平和の重要性を再認識させるブログとして評価できます。
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