SDG0 – 戦争の放棄

戦争放棄で始める持続可能な未来
[開設日] July 25, 2022 [更新日] February 9, 2026

国連が2015年に採択した「持続可能な開発目標 (Sustainable Development Goals: SDGs)」。この地球を未来永劫に持続させ、人々が幸せに暮らせる環境をみんなで実現しようという呼びかけだ。素晴らしい発想とは思うが、重大なことが見落とされている。

この宣言文書の前文には、このように書かれている:

As we embark on this collective journey, we pledge that no one will be left behind.

「ともに持続可能な世界へ向かうこの旅をはじめるにあたり、だれひとり取り残さないことを誓います」(日本 ユニセフ SDGs CLUB 訳)

この短い文章に、強い違和感を感じる。このように美しい言葉を掲げながら、世界平和に必要不可欠な条件であろう「戦争の放棄」が宣言本文のどこにも明記されていないのはなぜか?

持続可能な世界への旅に私達は参加できるとしても、この瞬間にも戦争や紛争のために命を落としている大勢の子供、一般市民、そして兵士がいる。彼らの後ろにはさらに大勢の、絶望と悲しみに打ちひしがれた家族がいる。戦争によって、その家族さえも失った子供たちがいる。

彼らは、まさに持続可能なはずの世界への旅から「取り残されし者」だ。私達は彼らの存在を決して忘れてはならない

戦争放棄はSDGsの前提条件

SDGs文書には「貧困をなくそう (SDG1)」に始まって「飢餓をゼロに (SDG2)」「すべての人に健康と福祉を (SDG3)」など、全部で17の持続可能な開発目標が掲げられている。

平和に関する目標は、呼びかけの最後から二つ目に「平和と公正をすべての人に (SDG16)」として、柔らかい間接的な表現で掲げられている。しかし、戦争および大量破壊兵器の根本的な否定は、どこにも明文化されていない。

これでは、地球を守るための17の努力目標も、戦争により一瞬で崩れ去る。果たして、国連は戦争の放棄を棚上げにしてSDGsを2030年までに達成しようと考えたのであろうか。

戦争は人類最大の殺戮行為であり、森林破壊や水源汚染、土壌汚染などによって地球環境を傷つけ、教育や医療に要する資金を奪い、子供たちから未来への希望を容赦なく奪い去る。

戦争を許容している限り、「持続性」という言葉には根拠がないのは明白だ。本当に持続可能な未来を目指すのであれば、その第一歩は「戦争の放棄」以外にはないと断言できる。

この違和感を解消し、SDGs宣言を万全なものとするために、「戦争の放棄」を宣言全体の前提条件(= SDG0) と定義し、これを宣言に導入することを提言する。

具体的には、「国権の発動たる戦争、および核兵器等の大量破壊兵器は、永久にこれを放棄する」という、極めて明快な目標だ

そのために “sdg0now” (sdgゼロ・ナウ、sdg-zero-now, SDG-ZERO-NOW, etc.) という呼びかけも併せて提案する。

これは「戦争放棄による世界平和の達成を常に意識して行動する」という呼びかけであり、個々の人間にとって公平かつ絶対的な規律としてとらえる。

人間は何も好き好んで戦争という残虐行為に訴える必然性はない。それがどのような結果を引き起こすか想像してみることだ。

昨日までそこにあったはずの我が家の跡にひとり立ち尽くす少女。瓦礫の山を前にしたその眼差しは、悲しみより先に「なぜ?」「どうして?」と問いかけている。幼い子供に理解できるはずがない、毎日テレビのニュースで目にする大人達がこのような破壊をもたらすとは。

戦争という概念のない未来

どうして戦争をするのか。戦争せずに対立を解決するという知恵は、私達にはないのか。もし、自分の子供や孫に「なぜ大人は戦争して人を殺すの?」と問われたら、私達はどう答えるか。

「戦争」という言葉に注目し、「戦争」のない未来社会を想像してみる。その第一歩は、「戦争」に対する私達の概念を根本から見直すことであり、それこそが”sdg0now” の呼びかけの根幹だ。

SDGsの17の目標を一枚の紙に書き出してみると、SDGs宣言の全体像が分かる。さらに、最後の「パートナーシップで目標を達成しよう (SDG17)」 からは、実にワクワクするような可能性を感じとることができる。

仮に、武力を保有するすべての国の指導者がこれまでの戦争の歴史の残忍さに気づき、戦争の全面即時放棄を決意し、ビッグブラザー (頼もしい兄貴分) 的パートナーシップ を結んで力を合わせれば、真に持続可能な未来への道がより早期に見えてくるはずだ。

戦争を放棄すれば、さらなる武力維持開発資金は不要となり、この莫大な余剰費を過去のおびただしい戦争破壊による瓦礫からの復旧や支援に当てれば、SDGsの達成も初めて現実性を帯びてくる。

そうなれば、世界中の子供たちが目を輝かせ、飛び跳ねて喜ぶのは間違いない。彼らに希望がもたらされたからだ。未来の光が見えてきたからだ。

戦争の放棄と核兵器の廃絶という勇断を下し、この歴史的なビッグブラザーパートナーシップ条約調印式に臨むために、世界中の子供たちの代表に先導され、テレビカメラに囲まれて誇らしげにレッドカーペットを進む全世界のリーダーたちは、地球上の80億人もの人々の「決断が遅すぎる!」という大ブーイングに続き、一転して称賛の的となり、その名前は永遠に人類の歴史に刻まれることだろう。

願わくば、持続可能なはずの世界への旅から「取り残されし犠牲者たち」も、自分たちの死が決して無駄ではなかったと、私達のこれまでの数々の過ちを許してくれるだろう。

反省と謝罪

戦争放棄をめぐる議論の歴史は長い。多くの法律家、政治家、宗教家、有識者たちが論戦を繰り広げてきた。

残念ながら、彼らの論争はいつ実を結ぶのか予測さえつかないのが現状だ。その間にも毎日のように大勢の戦争犠牲者が生まれている。

これが「文明社会」の宿命なのか。決してそうではない。私達が戦争を選択肢として容認していることが原因だ。

戦争放棄は、世界中の人々の願望であることは間違いない。それが実現できれば、明日にもこの星は平和に満ち溢れるであろう。

それなのに、これとは反対の道に人々を導こうとする為政者、指導者、政治家が存在するのはなぜか。

19世紀後半に始まった日本による海外侵略は20世紀中期の太平洋戦争につながり、それから一世紀近くが経過した。海外侵略については日本は加害国であり、先の世界大戦に関しては加害国であり被害国でもあった

同じことが他のいくつかの国々にもいえる。いずれも加害国であり被害国でもある。その戦争で私達は互いに何かを学び、十分に反省したのか。その答えは「ノー」だ

東アジアに限って言えば、いまだに先の世界大戦の暗い影と憎しみの感情を引きずった報道に毎日のように接するのは、戦後処理が決して完了してはいないことを明確に示している。

国家間の政治的、金銭的な謝罪だけで事は済んだことにはならない。誠心誠意の全面的な謝罪が、相手国の人々一人ひとりの心に届いていないことが問題と思われる。

加害国も被害国も等しく、互いに正しい歴史認識から再出発し、充分な反省と誠意ある謝罪を経て一大決心して仕切り直しをすることが、真の再出発への第一歩となる。

後世の幸福のため、そして自分たちの人生を全うするためにも、先の世界大戦から80年経過後もいまだに私達を悩ませている、戦後処理問題の全面的、根本的解消が求められている。

そして「ありがとう、もう十分に謝罪してもらいました、いつまでも昔のことを根に持たないで、これからは仲良くしましょう」とお互いの口から聞かれたときが、新しい歴史のスタートとなる。

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人類の歴史をつなぐ若者たち

難しい国際問題の解決は次の世代に任せようなどと、平然と口にする政治家がいる。それは戦争という残虐行為をそれまで容認することを意味する。

どうして高い視点、長い視点から世の中を眺め、今すぐ問題解決に挑戦しようという政治家はいないのか。

このような政治家のビジョンの欠如のために、私達はいつまでも未解決のままの「難しい国際問題」に重苦しい生活を強いられている。


遠大な世界観、歴史観を描いて、真に平和な世界を築こうという使命感に燃えた政治家はいないのか。

平和実現はなぜ難しい

戦争さえなくなれば、最低限の平和は今すぐに実現できる。平和を語るときに忘れてはならないのが、小中高生を含む若者たちの存在だ。

次世代の主役となる若者たちには、戦争を含む世界の歴史と現状、平和の大切さを分かりやすい言葉で教育し、理解させることが肝要だ。

この時、先入観も偏見も一切植え付けてはならない。若者たちに先入観や偏見を植え付けることは、古い価値観、間違った事実を彼らのポケットにこっそりと押し込むのと同じだ。それでは健全な意識形成は望めない。

抽象的で理解困難な法律論や歴史観で語ろうとすること自体が、平和の実現という問題解決を難しくしているように思える。子供たちに限らず、大人にとっても難解である。

平和や戦争の法律論や歴史観について書かれた世界中の文書すべてをAIに検証させても、正解は得られないであろう。

戦争を放棄した後どうするか、どのような国際社会をどのように形成するか。それを模索することこそ本来の課題ではないか。世界中の人々が、若者たちも交えて知恵を絞って考えれば、きっと平和な世界を実現する方法が見つかるはずだ。決して不可能なこととして片づけてはならない 。

カオスからの出発

今から138億年前、宇宙が誕生したとされる。そして46億年前、私達が住む地球が形成され、やがて人類が現れ、人口80億人の現在に至る長い歴史が始まった。それがすべてだ。そこで何をしろ、どのように生きろ、という決まりも価値基準も一切なかった。

そのようなカオスの中で、生きるための最小限の知恵が芽生え始める。毎日の食べ物を求めるなかで協力とともに争いや欲も生じ、境界、家族、集団、保護、社会、差別などという概念が生まれていったと考えることができる。

平和に生きるという概念もないまま、私達の祖先は学習や工夫によりさまざまな道具や手段、生き方を手にしていった。その中には略奪や暴力も入っていたに違いない。

知恵と悪知恵はさらにレベルアップし、国境や国籍や戦争といった「文明」の概念が生まれ、複雑化していった。今がその頂点だ。

残念ながら、戦争や紛争による悲劇の報道が示すように、現在は知恵より悪知恵、話し合いより暴力の方が勝り、私達は国連、国際法や政治、外交などで問題解決の道を探っている

しかし、それは過去の経験から得た記憶と知識をたどりながら、来た道を正確に後戻りし、問題の発端と思われる水漏れ個所を見つけ、そこにパッキンを当ててしのごうとする一時的なプロセスに過ぎない。

迷わないように落としていったパンくず (言葉、記憶、知識、経験、定義) をひとつづつ拾い上げて確かめ、カビを払い落とし、パズルのピースのように少し離れた別の場所に無理やりはめ込むようなものだ。それでは新しい水漏れを防ぐことはできない。パズル自体に「既成概念」という限界があるからだ。

拾ったカビだらけのパンくずに頼っては解決したことにはならない。そのパンくずは焼却し、来た道を枝元まで一気に俯瞰し、新鮮なパンくず(思考、価値観、ビジョン、歴史の転換)を用意し、それを新しい道標として残しながら新しい道を切り開いて進むのが、正しい解決方法と思われる。

人類の歴史は、46億年前から未来に向かって着実に時を進めてきた。しかしながら、ある時点から私達は明らかに誤った方向に進んでいる。

幸い、私達にはそのような歴史上の曲がり角を記録 (認識) するという最小限の知恵は備わっている。その解決策を求めて、カビだらけのパンくずまで戻って考える (反省する) ことも知っている。

そこで未来志向のビジョンを打ち立て、目前に広がるカビだらけのパンくず (戦争や侵略などの既成概念、価値観) を左右に蹴散らしながら、新しいビジョンに従って歴史の流れを新しい方向 (sdg0now = 戦争のない世界) に向け直して進むのが正解であろう。

この時、カビだらけのパンくずは完全に排除することが肝要だ。カビが少しでも残っていては、それは人類が過去の遺物となった既成概念や価値観にこれからも支配され、後ろに蹴散らしたと思ったカビだらけのパンくずにいつまでも惑わされ、悲惨な戦争や争いを繰り返す運命にあることを意味する。

「戦争」という言葉に惑わされてはならない。その単語は忘れ、他の道を探る勇気が求められる。その言葉が頭に残っていても、それを実行してみたいという衝動にかられてはならない。過去の遺物は研究反省の対象となったとしても、決して崇拝の対象となってはならない。

子供たちの権利は大人世代の責任

戦争を放棄した直後の国際社会の意識状態を、新しい歴史 (ビジョン) の始まりとする。戦争のない世界を想像し、その中であらゆる国際事案に取り組む。そうすれば、難しいとされる国際紛争も一気に解決することに気づく。

そして、気づいた後に何をどうすべきかを講じる。それが、現代社会を生きる私達に課せられた最優先の使命だ。

戦争の悲劇は人命だけではない。爆撃によって瓦礫の山と化した町、住宅、学校、病院、公園を再建し、安らぎを約束するベッド、温かい食事、きれいな水を確保するには、想像を絶する長い時間と莫大な資金が必要だ。

その天文学的規模の社会経済的負担に苦しむのは、現在を生きる子供たち、これからの社会を支える若者たち、私達の子供たち、孫たちだ

その時、瓦礫を作った張本人、気の遠くなるような負の遺産と苦しみを次世代の若者たちに押し付けた大人達の姿は、もはやどこにもない。

大人に対する子供の不信感は、容易に消し去ることはできない。彼らの不安、悲しみ、不便、不自由は、大人が作り出したものだからだ。そして、その愚行は今日もなお、当然のごとく続いている。

それは「戦争」という化け物が、私達の心の奥に「美談」を伴う既成概念として力強く息づいているからだ。そのままでは、戦争という選択肢を消し去ることはできない。

さらに危惧すべきは、戦争相手国の人々に対する怒り、恨み、憎しみが「教育」という名の下で、子供たちの心に刻み込まれている可能性があるということだ。それは、世代が変わっても「復讐」という形になって、戦争が繰り返されることを強く示唆する。

外交努力によって国際情勢は少しずつ改善されていると見えても、実は私達はまだ戦争の歴史街道上に落ちているカビだらけのパンくずに頼って生活しているにすぎない。

世界の指導者達に尋ねたい。一体いつまで、戦争と将来の不安、閉塞感に束縛されたこの日常を若者たちに続けさせるつもりか。気が遠くなるような莫大な負の遺産を、いつまで彼らに押し付けるつもりか。

国連が制定した「子どもの権利条約」が約束するように、世界中の若者たちには自由に生き、夢を追い求める権利がある。次の世代の主役となる若者たちには、夢と希望と自由に満ちた明るい未来を用意しなければならない。

若者たちには、人類の福祉と平和に貢献したいという純粋で熱い情熱がある。彼らは科学、学術、スポーツ、芸術、福祉、娯楽など、あらゆる分野で互いを刺激し、協力し、正々堂々と競い合う意欲に満ち溢れている。

醜い覇権争いに明け暮れ、宇宙にまで競争を持ち込み、自分の手柄にしようなど目論むような愚かな若者はいない。そのような指導者の利己的欲望に追従、共鳴するような若者もいない。

人類の将来は彼ら若者たちにかかっている。人間が決していつまでも愚かではないことを証明してもらう大役を、彼らに引き受けてもらわなければならない。彼らこそ、この宇宙を舞台とした、人類の壮大な歴史を紡ぎ続けてくれる存在 (“timebinders”) ではないか。

このような考え方に対して、君は歴史を知らない、政治を知らない、学校で何を学んだのか、何を馬鹿なことを考えている、世の中とはそういうものなんだよ、などの反論を耳にすることがある。

人を苦しめる政治など知りたくもない、知る価値など微塵もない。カビだらけのパンくずなど、焼却するしかない。放置しておくとカビが増殖し、世界を窒息させるばかりだ。

そんな政治によって形成された歴史より注目すべきは、戦争が行われているという確かな現実だ。そのために多くの人命が失われているという現実、現在の国際社会の悲しい実情、現在の若者たちがおかれた厳しい環境だ。

瓦礫の前に立ち尽くす少女、栄養不良で力なく横たわる乳児、冷たくなった母親の横で泣き叫ぶ幼児、戦場に放置された兵士の遺体、大勢の戦争孤児たち。この現実は、今すぐにも終わらせなければならない。

重要なのは、戦争という愚行によって、私達の歴史はカビだらけのパンくずで完全に汚染されてしまったという現実に気づくことだ私達が知らず知らずにそのカビだらけのパンを毎日おいしそうに食していることに気づくことだ。

80億人との暗黙の合意

そもそも、46億年前に誕生したとされるこの地球は、誰のものでもない。世界の人口80億人の全員が誰でも、本来は地球上のどこにでも自由に生きる権利を生まれながらに持っている。

それは個人一人ひとりの権利であると同時に、自分とすべての他人一人ひとりとの間の暗黙の相互合意事項でもある。

自分が自由に生きる権利を有すると同時に、他の80億人すべても自由に生きる権利を有すること、そして互いの存在自体を互いに認め合うことを意味する。まさに「生きて生かせる」(“Live and Let Live”) という約束だ。

文明が発達する過程で、私達は様々な概念とそれに対応した「取説」を取り入れてきた。国籍や領土、国境などの概念とそれに特化した法律や制度だ。

誰のものでもない地球に誕生し自由に生きてきた人類は、今日では多様な法律や制度によって国という共同体の保護を享受すると同時に、制約をも受けるという不自由な反面もある。

しかし、誰もが持っている「生きる権利」自体は、普遍の権利といえる。国の指導者といえども、この権利を国民から奪うことはできない。

この「生きる権利」は、小学生でさえも理解できる原始的権利だ。学者や政治家が異論を唱えることはできない。

彼らが登場するのは、戦争放棄の概念が周知徹底し、「生きて生かせる」という名の新しい歴史の初日の幕が開いた後だ。

そこで彼らが演じるのは、どうすれば新しいパンくず (戦争を放棄した国際社会における人々の意識、概念、法律、制度) と、従来からある旧態依然のカビだらけのパンくず (既成概念) とをどのように整合共存させ、地球という舞台の上で人間が平和に暮らすことができるか、その方法を模索することだ。

残念ながら、人類が誕生して以来、紀元21世紀となった今も、私達はその答えを見つけてはいない。カビだらけのパンくずを十分に遠くまで蹴散らすことにはことごとく失敗し、新しいパンを手にすることもできず、いまだに残存するカビだらけのパンくずとうまく共存することもできない状態だ。

新旧の概念が整合共存する状態とは、「負のフィードバック (negative feedback)」あるいは「アンラーニング (unlearning)」による意識改革ととらえることもできる。

例えば、あることについて学校で習った知識を、そのことに関してはその前のゼロの状態まで、意識を伴う知識を戻す作業といえる。いわば、習ったことを積極的に忘れてしまおうということともいえる。

場合によっては80年前まで、あるいは46億年前まで知識を戻さないと、意識そのものをゼロにすることができないかもしれない。

つまり、求めるべきは「既成概念後ろから左右に確実に蹴散らしながら前進する、静かで持続可能な、極めて日常的な意識改革が展開する世界」と予測できる。

真の幸せ

21世紀を生きる私達のこの悲しい現状は、科学技術、政治、法律、教育、宗教、芸術、人間の知恵の限界を露呈しているといえる。そうでなければ、健全な政治が行われ、戦争などとっくに地上から無くなっているはずだ。

日本は「戦争のない平和な国」と言われてきた。本当にそうであろうか。まだ終わっていないと思える戦後処理の問題、他の国や地域での戦争や紛争、飢餓、貧困、日本人拉致問題など、多くの悲しい現実から目を背けたままでいいのだろうか。

他の国で秩序が破壊されているのに、自分たちだけが「自称平和国家」でいられるのだろうか。「他人事」で済ませていいのだろうか。

それは80億人との約束事に反することを意味する。他者の自由に生きる権利を見捨てるのは、いつか自分の生きる権利も同じ道をたどる可能性を強く示唆している。

あの瓦礫の前に呆然とたたずむ少女の絶望感、栄養不良で力なく横たわる乳児、冷たくなった母親の横で泣き叫ぶ幼児、戦場に放置された兵士の遺体、大勢の戦争孤児たちの姿には、私達にも責任がある。

その元凶は「よその国のことだろう」「自分には関係ないよ」「世の中とはそういうものなんだよ」という寂しい考え、諦めの境地、無関心だ。見て見ぬふりをしてきたからだ。そのような風潮を私達が作り出し、容認してきたからだ。

このような歪んだ世の中を、あるがままに肯定してはならない。「しようがない」と諦めてはならない。そのような消極論は、戦争を日常の一部ととらえるのと同じだ。

カビだらけのパンくずを何も考えずに、いつまでもおいしそうに口にし、子供たちにも与えるのと同じだ。

これが真の幸せなのだろうか。それでは何世紀経っても本当の意味での平和な世界には一歩も近づくことはできない。自由に生きるという自分の権利を自ら放棄するのと同じだ。

ホモ・サピエンスの嘆き

先の世界大戦から一世紀近くが経過した。人間はその間に少しでも賢くなったであろうか。確かに科学技術の面では進化したといえる。しかし、平和という観点からすると、人間は少しも賢くなってはいない。「戦争という選択肢」を廃棄することなく、世の中が進んでいないだろうか。

30万年前に現れたとされるホモ・サピエンス (賢い人) でさえ、現在の地球上の無謀な争いを目にすれば、「なんだこれは!?」と驚くだろう。

私達の子孫はこんな程度の知恵しか手にすることができなかったのか」と、その愚かさと分別のなさの極みに驚き、人類の行く末を悲観することだろう。

そして、自分たちに言葉と文字があったら「もっと賢く、みんな仲良く」と書き残しただろうにと嘆き悲しむに違いない。

武力競争の犠牲になるのは、次世代を担う子供たち、若者たちだ。彼らの未来へ向けた自由な選択肢を制限することに他ならない。それは彼らの未来を奪うのと同じだ。

日本について言えば、未来志向に乏しい政治家たちが描く社会では、国民は希望を持つことが困難になる。このことが大人達の間に一種の「将来に対するあきらめの気持ち」を生じさせ、そのムードは家庭内の会話を介して子供たちにも伝播する。

その結果、自由をも制限された社会は若者たちの失望感、閉塞感、無気力につながり、さらには引きこもり、不登校、いじめ、暴力、自殺、殺人などの遠因にもなる。

そのような事態になったことの背景を解明し、どうすれば自分たちの住む社会や世界を少しでも良くできるか、若者たちにとってより希望に満ちた、明るい人生を期待させる世の中にできるかに考えを巡らせなければならない。

最低限の規律もないままに、私達は戦争を繰り返し、政治的な「謝罪」だけで誠意ある反省もないまま、この一世紀を生きてきた。

その中で数々の科学的発展も収めてきた。人間の生活を豊かにする科学、人間そのものを殺戮する科学。

人間の貪欲さを象徴する覇権争いは今や地球のみならず、月から宇宙まで達しようとしている。そして、莫大な資金がそのために向けられている。

覇権争いに向けられる資金と人材と時間を、貧困や飢餓の解消や難民救済など人道的な目的に回すことを想像してみる。

急を要するSDGsの多くは瞬く間に解決の道が開かれ、世界が希望に溢れ、喜びのあまり飛び跳ねる子供たちの笑い声に満ちた場所に生まれ変わることは疑う余地もない。

このような世界情勢の中で子供たちに希望に満ちた未来を約束できるのは、彼らの親世代、すなわち大人達だ。そのためには、大人達が積極的に行動しなければならない。政治家たちばかりに適当に任せておいては、どこに連れていかれるのかわからない。

これまで政治家を選んできたのは私達自身、そして私達の親たちだ。その意味では、現在の世の中の歪みは、政治参加における私達一般国民の行動にも大きな責任がある。

清き一票が平和への第一歩

これは極めて深刻な問題だ。私達一人ひとりに直接責任があるからだ。先ず、選挙に無関心であることをやめることから、行動を開始しなければならない。

「どうせ誰を選んでも同じだろう」と思うのは間違っている。私達自らが行動すれば、私達の余生が尽きるまでに世の中をより良いものに変えることができる。すべては私達自身にかかっている

そのためには、自分自身と愛すべき子供たち、孫たちの幸せのために、投票する候補者を真剣に選ぶことだ

この時、個人が単独で社会を改革するのはあまり効率的とは言えない。それよりも、このような歪んだ社会、風潮を作りだした責任の一端を担う政治家たちを巻き込むのが効果的だ。

先ず、私利私欲に固まった利権追及型政治家と、誤った方向に国民を導こうとする熱血型政治家を見分けることだ。

彼らの政策や演説の甘い言葉、勇ましい言葉に惑わされることなく、その行動と実体から冷静に判断する。そして、次の選挙から何としても彼らを排除することだ。

政治家を選ぶのは有権者だということを私達が認識する。周囲の有権者にも呼びかけ、選挙がいかに大事であるかを伝えて、みんなで投票率100%達成を目指す。

自分の票が他の有権者の票と合わさって一つの流れとなり、さらに大きな変化を生み始める。それが平和へ向かう社会改革の確実な第一歩となる。

映像メディアの力

国際的な視点から言えば、国連の呼びかけである日、世界中のすべての人間が同時に立ち止まり、一定の期間中、時間と悲劇の情報と感情を共有することだ。まさに「フラッシュモブ」型の行動といえる。

そこで彼ら平和愛好家の大きな力となるのが「映像メディア」の協力だ。動きや音や色を通してみる人に強烈な印象を与え、感情に深く訴えかけることができる。

映像メディアには、伝えたいメッセージを相手に鮮明かつ正確に届けることが期待される。そのメッセージとはもちろん「戦争の放棄」と「世界平和」だ。

殺戮と破壊の悲惨な現状をメディアを通じて訴え、悲劇を生み出しているのは少数の人間であり、その部下も含めて、実は他の誰も戦争を続けることを望んでいないことを伝える。

そして、悲劇を終わらせることこそが地球に住む80億人の強い願いであり、そのためには戦争の即時終結と放棄が急務であることを、戦争当事者たちに訴える。

そのような映像の製作を、全世界の映像メディアに呼びかけたい。大手映画製作会社、テレビ局、新聞社、映画大学の学生、小中高生や一般市民の有志など、多くのグループに参加してもらえることが期待できる。出来上がった映像作品の届け先は、国連事務総長だ。

世界中の子供たちへのプレゼント

これは、世界中の子供と大人、すべての人類を巻き込んだ、世界平和に向けての「人類の人類による人類のための壮大な一大改革」といえる。

大人達の責任は極めて大きい。先ず私達が事の重大さをしっかりと認識し、私達には世の中を変える意欲と力があることを再認識し、政治家に働きかけ、そして彼らをフルイにかける。今こそ、それを実行することを真剣に考えるときだ。

一日遅らせれば、それだけ新しい悲劇、犠牲者、破壊が生まれ、若者たちを失望させるだろう。大人達の間には「あきらめの境地」がさらに広がるだろう。

一日でも早ければ、それだけ平和な世界に近づく手段を手にすることができよう。希望に満ち溢れ、目を輝かせて飛び跳ねまわる子供たちの笑顔を目にすることができよう。

持続可能なはずの世界への旅から「取り残されし者たち」も、自分たちの死が決して無駄ではなかったと、私達のこれまでの数々の愚行を許してくれるだろう。

その歴史的決断は、世界中の子供たち、私達の子供たちと孫たち、ひ孫たちに自慢できる、真に持続可能な明るい未来への道、大人達からの心からのプレゼントだ。

世界中の子供たちに明るい未来を!

世界中の子供たちに明るい未来を!
Bright future for the children worldwide !

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SDG 0 – 戦争の放棄: 公開中

<プロフィール>

小学生の頃、友達と道路で遊んでいると、聾学校の生徒が数人、手話で会話しながら通りかかった。友達が、先頭の生徒をからかい始めた。その上級生が友達の後ろから忍び寄り、友達の尻を思い切り蹴飛ばした。中学生の頃、「差別を受けているとされる朝鮮人の老婆」が通りかかった。その悲しみに満ちた眼差しは今でもはっきりと記憶している。

高校大学と進み、人種差別、領土領海問題、拉致問題、テロ、暴力、暴走族、反社会的勢力など、さらに多くの不条理を見聞きした。その最たるものが「戦争」という殺戮行為だ。人間はなぜ戦争するのか。戦争をなぜ止められないのか。

「戦争」という概念に対する自分の考えを言葉で表現することが、自分のライフワークとなった。このブログは、海外での軍事侵攻や日本の国政の現実など、最近の出来事も加味しつつ、さらに加筆更新中です。[pera記]

<最近の変更箇所>

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