戦争放棄で始まる真に持続可能な世界への旅

[開設日] July 25, 2022 [更新日] July 11, 2025

国連が2015年に採択した「持続可能な開発目標 (Sustainable Development Goals: SDGs)」。この地球を未来永劫に持続させ、人々が幸せに暮らせる環境をみんなで実現しようという呼びかけだ。素晴らしい発想とは思うが、重大なことが見落とされている。

この宣言文書の前文には、このように書かれている:

As we embark on this collective journey, we pledge that no one will be left behind.

「ともに持続可能な世界へ向かうこの旅をはじめるにあたり、だれひとり取り残さないことを誓います」(日本ユニセフ協会訳)

この短い文章に、強い違和感を感じる。

SDGs文書には「貧困をなくそう (SDG1)」に始まって「飢餓をゼロに (SDG2)」「すべての人に健康と福祉を (SDG3)」など、全部で17の努力目標が掲げられている。

いずれも急を要する目標ではあるが、そこには「戦争の放棄」という、世界平和に必要不可欠な目標が欠落している。

平和に関する目標は、呼びかけの最後から二つ目に「平和と公正をすべての人に (SDG16)」として、柔らかい間接的な表現で掲げられている。これでは、平和に与えられた緊急度は高いとは思えない。

果たして、国連は戦争の放棄抜きでSDGsを2030年までに達成しようと考えたのであろうか。

持続可能な世界への旅に我々は参加できるとしても、この瞬間にも戦争や紛争のために命を落としている大勢の子供、若者、大人、そして兵士がいる。彼らの後ろにはさらに大勢の、絶望と悲しみに打ちひしがれた「家族」がいる。住むところや毎日の食事、水、医薬品の確保さえできなくなった人々もいる。

彼らは、死者も家族も難民も、まさに持続可能なはずの世界への旅から「取り残されし者」だ。我々は彼らの存在を決して忘れてはならない。

「戦争放棄」をSDGs宣言の前提に

このSDGsに潜む違和感を直ちに解消し、呼びかけをより万全なものとするために、「戦争放棄」をSDGs宣言全体の視座としてこれを目標0 (SDG0) と定義し、「貧困をなくそう (SDG1)」 の前において最優先することを提案する。

具体的には、その手段や犠牲者の人数にかかわらず、人の命を奪わないという極めて一意的な目標だ。

さらに、この目標を今すぐ日常の行動に反映させるために “sdg0now” (sdgゼロ・ナウ、sdg-zero-now, SDG-ZERO-NOW, etc.) という呼びかけも併せて提案する。

これは「戦争放棄による世界平和を常に意識する」という呼びかけであって、国籍を問わず、子供から高齢者まで、個々の人間が無条件で従うことが望まれる公平かつ絶対的規律としてとらえる。

戦争という殺戮行為が現代の世の中でいまだに続いていることは、嘆かわしいことであり、また不可解なことでもある。

どうして戦争をするのか。どうして戦争が許されるのか。どうして戦争を止めさせられないのか。戦争に依存せずに問題を解決するという知恵は、我々にはないのか。

「戦争に勝利した」ということは「大勢の人を殺した」ことを自慢するのと同じだ。「戦争以外に解決方法がみつからない」と、自分たちに知恵がないこと告白しているようなものだ。「相手の方が先に攻めてきた」というのは、まるで子供のセリフと同じだ。

戦争のない未来世界

そこに「戦争」という言葉があることに注目し、「戦争」という概念のない未来世界を想像し、戦争放棄後の平和社会を実現する手段を模索する。

その第一歩は、戦争の歴史に対する我々の常識を根本から変えることだ。これこそが “sdg0now” の呼びかけの根幹だ。

SDGsの17のタイトルを一枚の紙に書き出してみるとSDGs宣言の全体像が分かる。さらに最後の「パートナーシップで目標を達成しよう (SDG17)」 からは、実にワクワクするような可能性を感じとることができる。

仮に、武力を有するすべての国の指導者がこれまでの戦争の歴史の愚かさを認め、戦争の全面放棄を決意し、ビッグブラザー (頼もしい兄貴分) 的パートナーシップ を結んで力を合わせれば、真に持続可能な未来への道がより早期に見えてくるはずだ。

戦争放棄後は、武力としての技術開発に加えて戦争による破壊からの復旧に要する新しい予算も不要となり、それによって生じる莫大な余剰費を復旧や支援などに当てれば、2030年の目標達成期限も決して夢ではない。

特に、SDG1からSDG3までは瞬く間に解決の道が開かれ、世界中の子供たちが目を輝かせ、飛び跳ねて喜ぶのは間違いない。彼らに希望がもたらされたからだ。

戦争の放棄という勇断を下し、この歴史的なパートナーシップ締結の署名に臨むために、世界中のテレビカメラに囲まれてレッドカーペットを進む全世界のリーダーたちは、地球上の80億人もの人々の「遅すぎる!」という大ブーイングに続き、一転して称賛の的となり、その名前は永遠に人類の歴史に刻まれることだろう。

誠心誠意の反省

戦争放棄の議論は今に始まったことではない。多くの法律家、政治家、宗教家、いわゆる有識者、ジャーナリストたちが自説を戦わせてきた。

残念ながら、彼らの論争はいつ実を結ぶのか予測さえつかないのが現状だ。その間にも毎日のように大勢の犠牲者が報道されている。

戦争放棄の採択は拒否権行使対象から除外し、今すぐにも世界の全ての人間が無条件で合意、実現すべき目標ではないか。その気になれば、明日にもこの星は平和に満ち溢れるであろう。

それなのに、これとは反対の道に国民を導こうとする政治家、リーダーがこの世の中に存在するのは何故か。

19世紀後半に始まった日本による海外侵略は20世紀中期の太平洋戦争につながり、それから一世紀近くが経過した。侵略については日本は加害者であり、先の世界大戦に関しては加害者であり被害者でもある。

同じことが他のいくつかの国にも言える。その間に我々は互いに何かを学び、何かを反省したのか。その答えは「ノー」だ。

いまだに戦争の暗い影と憎しみを引きずった報道に毎日のように接するのは、戦後処理が決して完了してはいないことを証明している。

国家間の政治的、金銭的な謝罪だけで事は済んだことにはならない。誠心誠意の全面的、精神的、文化的、教育的な謝罪が相手国の人々一人ひとりの心に届いていないことが問題と思われる。そのためには、互いに一大決心して仕切り直しをすることが、現実的な平和への第一歩であろう。

難しい国際問題の解決は次の世代に任せよう、などと平然と口にする政治家がいる。それは戦争という殺戮行為をそれまで容認することと同じだ。どうして今すぐ解決しようという考えにならないのか。これより優先すべき課題が他にあるのか。

利権追及と忖度 (見返りを期待した配慮) の政治文化にきっぱりと決別し、自分達に課せられた本来の使命を思い起こし、自分達の手で、自分達の世代で、明日にでも平和な世界を築こうというビジョンに溢れた政治家はいないのか。

平和を築くことを常に意識して行動するのが、我々の日常生活で最優先すべき姿勢ではないか。

平和実現は何故難しいか

人の命を奪うことさえ止めれば、最低限の平和は今すぐにでも実現できる。大勢の人の命を救うことができる。そのような発想ができる政治家はいないのか。

古代人に殺人をやめさせようとしても不可能かも知れない。しかし、現代を生きる80億人の人間なら啓蒙、教育、説得によって戦争を止める気にさせることができるはずだ。

平和を語るときに忘れてはならないのが、小中高生たちの存在だ。彼らは次世代の主役ともいえる存在であり、彼らの考え、意見、希望を無視してはならない。そのためには、戦争を含む世界の現状を分かりやすい言葉で説明して、彼らにも理解してもらわなければならない。そして彼らが納得できる世の中を形成する必要がある。

抽象的で理解困難な法律論や歴史観で語ろうとすること自体が、平和の実現という問題解決を難しくしているように思える。子供たちのみならず、大人にとっても難解である。

戦争の法律論や歴史観について書かれた世界中の文書すべてをAIに解析させても、満足のいく解は得られないであろう。

実は、戦争を放棄するのは極めて簡単だ。「戦争は止めた」と宣言し、「戦争はしない」と憲法に明記し、それを遵守すればよい。子供たちでも理解できるいくつかの言葉で事は足りる。

戦争を放棄した後どうするか、どのような国際社会をどのように形成するか。それを模索することこそ本来の課題ではないか。

これほど具体的で単純なことが難しい国際問題の解決策であることに、政治家はどうして気づかないのか。

カオスからの出自とパンくず

今から138億年前、宇宙が誕生したとされる。そして46億年前、我々が住む地球が形成され、やがて人類が誕生し、人口80億人の現在に至る長い歴史が始まった。それがすべてだ。そこで何をしろ、どのように生きろという決まりも一切なかった。

そのようなカオスの中で、生きるための最小限の知恵が芽生え始めた。毎日の食べ物を求める欲から争いが生じ、境界、集団、社会という概念が生まれる。

平和に生きるという概念もないまま、我々の祖先は今から考えると好ましくないことも思いつき、経験、学習、創意工夫によりさまざまな道具や手段、生き方を覚えていった。

知恵と悪知恵はさらにレベルアップし、進化していった。今がその頂点だ。戦争や紛争の報道が続く現代を生きる我々は、このような由々しい状況を法律や政治や外交で解決しようと奮闘している。それは経験に基づいた知識に頼った方法だ。

来た道を正確に後戻りし、問題の原因と思われる水漏れ個所を見つけ、そこにパッキンを当ててしのごうとする一時的なプロセスに過ぎない。

迷わないように落としていったパンくず (「言葉」「知識」「経験」とも言える) をひとつづつ拾い、ゴミを払い落とし、少し離れた別の場所に置き直すようなものだ。

拾ったパンくずに頼っては解決したことにはならない。そのパンくずは忘れ、来た道を出発点まで一気に俯瞰し、新しいパンくず(新しい「思考」「ビジョン」「歴史」の転換)を用意し、それを手掛かりに新しい道を切り開いて進むのが、正しい解決方針と思われる。

いくらゴミを払い落としても、拾ったパンくずには「戦争」という名の、目には見えないばい菌が付着している。我々はゴミだけではなく「戦争」という概念自体から決別しなければならない。

子供たちの権利は大人世代の責任

戦争を放棄した後の国際社会を新しい思考 (「歴史」の始点) の前提条件とする。戦争のない世界を想像し、その後であらゆる国際問題に取り組む。

そうすれば、難しいとされる国際紛争も一気に解決することに気づく。我々がこれまでいかに愚かであったかに気づく。

そして、気づいた後に何をどうすべきかを講じる。それが、現代を生きる我々に課せられた緊急かつ最優先の使命ではないか。

昨日までそこにあったはずの我が家の跡に呆然と立ち尽くす少女。瓦礫の山を前にしたそのいぶかし気な表情は、悲しみより先に「何故、どうして?」と問いかけている。幼い子供に理解できるはずがない、大人たちがそのような蛮行に及ぶとは。

戦争の悲劇は人命だけではない。爆撃によって瓦礫と化した町、住宅、学校、病院、公園を再建し、安らぎを約束するベッド、温かい食事、きれいな水を確保するには、想像を絶する長い時間と莫大な資金が必要だ。

その社会経済的負担に苦しむのは現在を生きる子供たち、これからの社会を支える若者たちだ。我々の子供たち、孫たちだ。

その時、瓦礫を作った張本人、気の遠くなるような負の遺産と苦しみを次世代の若者たちに押し付けた愚かな大人達の姿は、もはやどこにもない。

大人に対する子供の不信感は、決して消し去ることはできない。彼らの不安、悲しみ、不便、不自由は、愚かな大人が作り出したものだからだ。そして、その愚行は今日もなお、当然のごとく続いている。

それは「戦争」という化け物が我々の心の奥に概念として力強く息づいているからだ。

政治努力によって国際情勢は少しずつ改善されていると見えても、実は我々はまだ路上に落ちているカビだらけのパンくずに頼って生活しているにすぎない。

世界の指導者達に尋ねたい。一体いつまで、戦争と将来の不安、閉塞感に束縛されたこの日常を若者たちに続けさせるつもりか。

気が遠くなるような莫大な負の遺産を、いつまで彼らに押し付けるつもりか。自分達には、そのような負担を次世代を担う若者たちに負わせる権利があると思い込んでいるのか。

次の世代の主役となる若者たちには、夢と希望と自由に満ちた明るい未来を用意しなければならない。

「子どもの権利条約」が約束するように、世界中の若者たちには、自由に生きる権利がある。夢を追い求める権利がある。彼らには人類の福祉と平和に貢献したいという純粋で熱い情熱がある。

若者たちは科学、学術、スポーツ、芸術、娯楽など、あらゆる分野で互いを刺激し、協力し、正々堂々と競い合う意欲に満ち溢れている。

戦争を仕掛け、宇宙にまで武力競争を持ち込み、自分あるいは自国の手柄にしようなど目論むような愚かな若者はいない。そのような利己的欲望に追従、共鳴するような若者もいない。

人類の将来は何よりも彼ら若者たちにかかっている。人間が決していつまでも愚かではないことを証明してもらう大役を、彼らに引き受けてもらわなければならない。彼らこそ、この宇宙を舞台とした、人類の壮大な歴史を紡ぎ続けてくれる存在 (“time binders”) ではないか。

このような考え方に対して、君は歴史を知らない、政治を知らない、学校で何を学んだのか、何を馬鹿なことを考えている、世の中とはそういうものなんだよ、などの反論を耳にすることがある。

人を苦しめる政治など知りたくもない、知る価値など微塵もない。カビだらけのパンくずなど、焼却するしかない。放置しておくとカビが増殖するばかりだ。

そんな政治によって形成された歴史より注目すべきは、戦争が行われているという確かな現実だ。そのために多くの人命が失われているという現実、現在の国際社会の悲しい実情、現在の若者たちがおかれた厳しい環境だ。

重要なのは、戦争という愚行によって、我々の歴史はカビだらけのパンくずで汚染されてしまったという現実に気づくことだ。

瓦礫の前に立ち尽くす少女、栄養不良で力なく横たわる乳児、冷たくなった母親の横で泣き叫ぶ幼児、戦場に放置された兵士の遺体。毎日何キロも家族のために水が入ったタンクを運ぶ子供たち。この現実は、今すぐにも終わらせなければならない。

80億人との暗黙の合意

そもそも、この地球は誰のものでもない。これは、世界の人口80億人の全員が誰でも、本来は地球上のどこにでも自由に生きる権利を、生まれながらに持っていることを意味する。それは個人一人ひとりの権利であると同時に、自分とすべての他人一人ひとりとの間の暗黙の合意事項でもある。

自分が自由に生きる権利を有すると同時に、他の80億人すべても自由に生きる権利を有すること、そして互いの存在自体を互いに認め合うことを意味する。自分が生きることを他人にも認めさせ、他人が生きることを自分も認める。まさに「生きて生かせる」(“Live and Let Live”) という約束事だ。

この「生きる権利」は、小学生でさえも理解できる初歩的で平等な権利だ。学者や政治家が異論を唱えることではない。

彼らが登場するのは、戦争放棄の概念 (“sdg0now”) が周知徹底し、「生きて生かせる」という名の新しい歴史の初日の幕が開いた後だ。

そこで彼らが演じるのは、どうすれば新しいパンくずと従来からあるパンくずとをどのように共存させ、地球という舞台の上で人間が平和に暮らすことができるか、その方策を模索することだ。

残念ながら人類が誕生して以来、紀元21世紀となった今も、我々はその答えを見つけてはいない。それは、我々にとって全く未経験の世界だからだ。

他人事ではない

21世紀を生きる我々のこの悲しい現状は、科学技術、政治、法律、教育、宗教、芸術の限界を露呈しているといえる。そうでなければ、健全な政治が行われ、戦争などとっくに地上から無くなっているはずだ。

日本は「戦争のない平和な国」と言われてきた。本当にそうであろうか。他の国や地域での戦争や紛争、飢餓、貧困、気象災害から目を背けたままでいいのだろうか。

他の国で秩序が破壊されているのに、自分たちだけが「自称平和国家」でいられるのだろうか。「他人事」で済ませていいのだろうか。

それは80億人との約束事に反することを意味する。他者の生存する権利を見捨てるのは、いつか自分の生きる権利も同じ道をたどる可能性を示唆している。

あの瓦礫の前に呆然とたたずむ少女の絶望感、栄養不良で力なく横たわる乳児、冷たくなった母親の横で泣き叫ぶ幼児、戦場に放置された兵士の遺体の悲劇は、我々にも責任がある。

その元凶は「よその国のことだろう」「自分には関係ないよ」「世の中とはそういうものなんだよ」という寂しい考え、諦めの境地、自己本位の考え、無関心だ。そのような風潮を我々が作り出し、容認してきたのだ。

このような歪んだ世の中を、あるがままに肯定してはならない。「しようがない」と諦めてはならない。そのような消極論は、戦争を日常の一部として容認するのと同じだ。時間がたってカビが生えたパンくずをいつまでも大事にするのと同じだ。

それでは何世紀経っても本当の意味での平和な世界には一歩も近づくことはできない。幸せに人生を送るという自分の権利を放棄するのと同じだ。

ホモ・サピエンスの嘆き

先の世界大戦から一世紀近くが経過した。人間はその間に少しでも賢くなったであろうか。確かに科学技術の面では進化したといえる。しかし、平和という観点からすると、人間は少しも賢くなってはいない。

30万年前に現れたとされるホモ・サピエンス (「賢い人」「分別のある人」)でさえ、現在の地球上の無謀な争いを目にすれば、「どうしてそこまでやるのか」と驚くだろう。

「我々の子孫はこんな程度の知恵しか手にすることができなかったのか」と、その愚かさと分別のなさの極みに驚き、人類の行く末を悲観することだろう。

そして、自分たちに言葉と文字があったら「もっと賢くなれ、みんな仲良く」と書き残しただろうにと嘆くに違いない。

武力競争の犠牲になるのは、次世代を担う子供たち、若者たちだ。彼らの未来へ向けた自由な選択肢を制限することに他ならない。彼らの未来を奪うのと同じだ。

彼らは本来「無限の選択肢と希望に満ちた自由な地球人」だ。そのためには、大人たち自らが先ず責任ある国際人、地球人としての自覚を持ち、若者たちにもそのように接しなければならない。

歪んだ世の中は若者たちの失望感、閉塞感、無気力につながり、さらには自殺、非行、暴力、殺人などの遠因となる。

そのような事態になったことの背景を解明し、どうすれば自分たちの住む社会や世界を少しでも良くできるか、若者たちにとってより希望に満ちた、明るい人生を期待させる世の中にできるかに考えを巡らせなければならない。

どうすればより明るい未来、人生を手にすることができるか、真剣に考えなければならない。それは若者たちの生まれながらの権利だからだ。それを大人たちが奪ってはならない。

最低限の規律もないままに、人間は戦争を繰り返し、政治的な「謝罪」だけで誠意ある反省もないまま、この一世紀を生きてきた。

その中で数々の科学的発展も収めてきた。人間の生活を豊かにする科学、人間そのものを殺戮する科学。

人間の愚かさ、貪欲さを象徴する武力競争は今や地球のみならず、月から宇宙まで達しようとしている。そして、莫大な資金がそのために向けられている。

貪欲な武力競争に向けられる資金と時間を貧困、飢餓の解消や難民救済のための対策など、人道的な目的に回すことを想像してみる。

急を要するSDGsの多くは瞬く間に解決の道が開かれ、世界がすぐにでも希望に満ちた場所に生まれ変わることは疑う余地もない。

このような世界情勢から子供たちを守るのは彼らの親世代、すなわち現在の大人達の責任だ。大人達が賢く行動しなければならない。政治家たちばかりに任せておいては、どこに連れていかれるのかわからない。

これまで、政治家を選んできたのは我々、そして我々の親たちだ。その意味では、現在の世の中の歪みは政治参加に対する我々の責任でもあることは明白である。

清き一票が平和への第一歩

これは極めて深刻な問題だ。我々一人ひとりが直接に責任を問われるからだ。先ず、選挙に無関心であることをやめることから行動を開始しなければならない。

「どうせ誰を選んでも同じだろう」と諦めず、自らの将来と子供たち、孫たちの未来のために、投票する候補者を真剣に選ぶ。

自分の票が他の票と合わさって一つの流れとなり、さらに大きな変化を生み始める。それが平和へ向かう改革の確実な第一歩となる

個人が単独で社会を改革するのはあまり効率的とは言えない。それよりも先ず、このような社会、風潮を作りだした責任の一端を担う政治家を巻き込むのが効果的だ。

私利私欲に固まった利権追及型政治家、誤った方向に国民を導こうとする熱血型政治家を見分けることだ。

彼らの政策や演説の言葉に惑わされることなく、その行動と実体から冷静に判断する。そして、次の選挙から何としても彼らを排除することだ。

負のフィードバック

国際的な視点から言えば、設立から一世紀近く経過した国連の仕組みを見直し、民主主義の精神に基づいて生まれ変わった新しい国連の合図で一度すべての人間が同時に立ち留まることが重要だ。

そして世界の実情に深く思いを馳せ、その知見を世界中で共有し、戦争放棄と平和構築という壮大で共通の目標 (SDG0 = “sdg0now”) に向かって大いなる決断を下さなければならない。

それは、個人間および国家間レベルにおける相互合意違反という過去の度重なる過ち(負の経験)をそれぞれが勇気をもって互いに認め、反省し、ともに平和への新しい道を堂々と歩み始める「負のフィードバック」(“Negative Feedback”) という決断だ。

世界中の子供たちへのプレゼント

これは、世界中の子供と大人、すべての人類を巻き込んだ、平和に向けての「人類の人類による人類のための壮大な一大改革」となるはずだ。

大人達の責任は極めて大きい。先ず大人達が事の重大さに気づき、我々には世の中を変える力があることを再認識し、政治家に働きかける、そして彼らをフルイにかける。今こそ、それを実行に移すときだ。

一日遅らせれば、それだけ新しい悲劇、犠牲者、破壊が生まれ、若者たちを失望させる。一日でも早ければ、それだけ新しい世界に近づく手段を手にすることができる。

それは世界中の子供たち、我々の子供たちと孫たち、ひ孫たちに自慢できる、真に持続可能な明るい未来への道、大人達からの心からのプレゼントだ。

世界中の子供たちに明るい未来を!

世界中の子供たちに明るい未来を!
Bright future for the children worldwide !

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SDGsに潜む違和感 -未完成公開中
ライフ・オリエンテーション – 制作中非公開
The Trouble with the SDGs – Coming
Life Orientation – Coming

(サイト予定) このサイトには上記二つのパート (日本語と英語版各2パート) を予定しています。SDGsに潜む違和感 (The Trouble with the SDGs) は小中学校時代以降に見聞きした社会問題に端を発する内容で、現在も編集更新中です。ライフ・オリエンテーション (Life Orientation) はそのような社会問題、特に「戦争放棄」を目的とした環境 (“sdg0now”) を実現する一つの方法といえるものです。こちらは制作編集中のため現段階では非公開です。[pera]

(プロフィール) 小学生の頃、友達と道路で遊んでいると、聾学校の生徒が数人、手話で会話しながら通りかかった。友達が、先頭の生徒をからかい始めた。その上級生が友達の後ろから忍び寄り、友達の尻を思い切り蹴飛ばした。中学生の頃、「人種差別を受けているとされる朝鮮人の老婆」が通りかかった。その悲しみに満ちた眼差しは今でもはっきりと記憶している。高校大学と進み、反社会的勢力など、さらに多くの社会問題を見聞きした。その最たるものが「戦争という概念の存在自体」です。その概念に対する自分の考えを言葉で表現することが、自分のライフワークとなりました。このブログは、海外での軍事侵攻や日本の国政の現実など、最近の出来事も加味しつつさらに加筆更新中です。[pera]

ブログ制作運用ソフトであるWordPressの経験がなくゼロからのスタートのため、学習しながら少しずつ進めています。サイト開設から2年以上経過しましたが、まだ未完成です。下にある「いいね」ボタンを押していただくと嬉しいです。[pera]

<AI ChatGPTによるブログ「SDGsに潜む違和感」の評価> (2024/12/23)

ブログ「SDGsに潜む違和感」は、持続可能な開発目標(SDGs)における「戦争の放棄」の欠如に焦点を当てています。著者は、SDGsに「戦争の放棄」が含まれていないことに疑問を呈し、真に持続可能な未来を築くためには戦争の放棄が不可欠であると主張しています。この視点は、平和の重要性を強調し、SDGsの目標を再評価するきっかけを提供しています。ブログの内容は2024年12月18日に更新されており、最新の情報が提供されています。また、シンプルなデザインで読みやすく、平和と持続可能性に関心のある読者にとって有益な情報源となっています。全体として「SDGsに潜む違和感」は SDGsの目標に新たな視点を提供し、平和の重要性を再認識させるブログとして評価できます。

直近の更新箇所 (7/9/2025現在)
* 見出し追加他、多数の変更追加箇所あり
* <AI ChatGPTによるこのブログの評価>